こんにちは、研究員の土岐です。
今日の特集は・・・先日、測量&現地調査に行った「旧三崎精錬所」です。
「旧三崎精錬所」は何処にあるかというと・・・佐田岬半島(伊方町)の先端。
中身はともかく、「この苦労&極寒を、みんなに伝えたい!」との一心でブログを更新しようと決意しました。
とにかく「寒い」の一言。「こんな寒い12月に朝~晩まで一日中・・・こんなところで・・・」ってなことをずっと思いながら作業してました(笑)。あ~思い出しただけでも寒い!
まず、車を降りて1.5㎞ほど森の中へウォーキング。「ピクニックみたいで楽しいな~」って感情は一切なし。寒さと山斜面の連続・・・。
普段、自分の机~トイレの往復ぐらいしか歩かない私にとっては、いつもの1000倍は歩いた感じ・・・。でも、斜面から見た海は、まさに絶景でした。
そんなつまらないことを考えながら、「三崎精錬所」という矢印どおりに歩いていくと・・・
バンッ!やっと到着。まさに森の中。
ここで、近代化遺産調査らしく「三崎精錬所」とそれを取り巻く佐田岬半島の銅山について話をすると・・・
佐田岬半島周辺は、あの新居浜の別子銅山とも通じる日本屈指の含銅硫化鉄鉱床地帯で、江戸時代から銅山の開発がおこなわれていました。銅鉱業は明治~大正期に最盛期を迎え、100以上の鉱山があったようです。
大正元年の愛媛県統計所によれば・・・西宇和郡の鉱山鉱区数は県下最多。
住友(別子銅山)のような財閥系資本を背景にした大規模運営とは違い、中小零細鉱山が多数存在し、多くの資本家たちを生み、近代という一時代を築きあげました。
採掘された銅鉱石を精錬する場所として、佐田岬半島には、「佐島精錬所」、「女子岬精錬所」、そして「三崎精錬所」がありました。
ここで行われていた精錬方法は、採鉱→砕鉱→焼鉱→荒吹(吹床)という流れ。
採鉱・・・採掘した鉱石を運び出す作業。
砕鉱・・・採鉱した鉱石を砕いて色の濃淡により選別(選鉱)する作業。
焼鉱・・・砕鉱された鉱石を焼き、鉱石中の硫黄分を取り除く作業。
荒吹・・・焼鉱を溶鉱炉で熱して溶かす作業。
「三崎精錬所」の創業年は不明ですが、明治30年には所有者の矢野壮十郎が三崎村との煙害問題の和解をしているので、それ以前に設置されたものらしい。つまり100年以上前の代物。
銅製錬の近代化を知る上で貴重な遺構として、平成15年に国の登録有形文化財に指定されています。
ただ、重要にもかかわらず、測量などによる図面がないということで、この極寒を味わう自体となったのです。
測量はこんな感じ・・・
二宮建築士がメジャーから位置を記録している風景です。
これが、上から下まで11列。焼鉱窯のある石積が11列も並んでいるのです。つまり、11列同じ作業が待っていたのです。
11列のさらに下には・・・
鉱毒を中和処理する収銅所があります。収銅所とは、排出される鉱水に溶けている銅を析出させて回収し、排水処理を行う鉱害防止設備です。
そして、収銅所から50mぐらいで海に出ます。
精錬された粗銅を運ぶための船着場です。辺り一面にはカラミ煉瓦も多数ゴロゴロしていました。
寒い日に、寒い所に行って、冷え切ったコンビニ弁当を、野郎4人で屋外で食べて(これがある意味一番寒くなる瞬間でした・・・)、夕方には、無事に予定どおり測量作業も終了。よかったの一言です。
測量が終了しなければ、誰かが「年明け早々に続きをしよう!」なんてことになることは、目に見えていたので、ホントひと安心でした。誰が言いそうなのか分かっていますが、ここではあえて伏せておきます。
帰りに、伊方町発祥の「じゃこカツ」(揚げたて、アツアツ)と、ホットコーヒーを飲んで、冬眠から覚めました。
くれぐれも「暖かく」なったら、みなさん行ってみてください。