研究員の崎山です☆
かなりバタバタしていて、久々の掲載です。
本日は終戦の日です。
今回は戦争遺産である今治市小島(おしま)の「芸予要塞 小島砲台跡」 について書きます。
芸予要塞(げいよようさい)とは、日清戦争から日露戦争への時代に築かれた瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の線に設置された大日本帝国陸軍の要塞。
簡単にいえば、日露戦争を想定してロシア海軍の侵攻を防ぐため構築された海岸要塞です。
愛媛県今治市沖の来島海峡に浮かぶ小島には指令台・砲台・探照灯・発電所が設置された「芸予要塞 小島砲台跡」がひっそりと眠っています。
(中央部に小島)
周囲が約3kmのこの小さな島は瀬戸内海国立公園内に所在し風光明媚な所で、近くには西瀬戸自動車道(通称 しまなみ海道)が見えます。
(海上より、左側が小島、右側がしまなみ海道)
今治市在住の私にとって、小島と聞くと、砲台跡が真っ先に浮かびますが、学校の遠足のコースとかキャンプ・海水浴・釣りというイメージが強い所です。島なのでもちろん船で渡ります。
渡船に乗り10分程で、島に到着。
遺跡をまわる約1.8キロの遊歩道が整備されています。
まずは島の山頂にある司令塔跡をめざします。
発電所跡が姿を現しました。
屋根だけは平成に入り、保存のため張り替えられていますが、それ以外は当時のままです。
この施設は主に夜間に海峡を進入してくる船を発見するため海上を照らしていた探照灯(サーチライト)の電力供給用に建築されたものです。
発電機は写真左側のコンクリートの台座の上は設置されていたようです。
さらに、遊歩道を登っていくと弾薬庫跡がありました。
弾薬庫跡などの重要な施設は、山の傾斜面を掘り下げた上に立地しており、周囲は山肌で護られています。
内部の様子です。屋根は残念ながら落ちてしまっています。
湿気を防ぐため床が上がっています。
柱はレンガ造りのアーチ状になっています。
(弾薬庫跡下部)
遊歩道を進んでいきます。
遊歩道には2500本以上のヤブ椿が植えられ、あちこちで椿のトンネルを形成しています。
島の中央部に位置する中部砲台に到着しました。
ここに「28榴弾砲(にじゅうはちせんちほう)」が6門設置されていました。
(中部砲台跡看板)
中央の円形の窪んだ所が砲台の台座跡です。
要塞側面の四角形の切りこまれた所には大砲の弾が3個ずつ納められていたそうです。
射程距離は6㎞~7㎞だったそうです。
台座跡だけではイメージがわきにくいと思うので、ここに設置されていたものと同じ砲台の複製が松山の「松山城ロープーウェー駅舎(「坂の上の雲」のまち松山 スペシャルドラマ館)」の屋外に設置されているので、撮影してきました。
この小島の地で、この砲台が使用されることはありませんでしたが、この中部砲台2門が日露戦争時の旅順要塞攻撃の際に二〇三高地を奪取するのに、当地から外され使用されています。
いよいよ、司令塔跡へ。
司令塔跡は山の頂にあります。
山頂からの眺望は抜群です。
司令塔跡です。
ここで敵の位置や方位を確認し、各砲台に指示をおこなっていました。
その他、北部砲台跡など、まだまだ紹介したいものがあるのですが、少し量が多くなりすぎましたので、またの機会ということで割愛します。
(地下兵舎跡・北部砲台跡)
(将校地下室跡・中部砲台跡)
この要塞は明治32年~35年の間に当時のお金で30万円(現在の価値に換算すると約10億円)で建設されました。
ロシア軍が日本に攻め入ることはなく、この要塞は軍縮小により役目を終え、大正15年に当時の波止浜町に払い下げられました。
今回の写真のほとんどは7月に撮影したものですが、実は今回「小島」を取り上げようと思ったきっかけは、本年5月28日~29日に「戦争遺跡保存四国シンポジウムIN愛媛」が今治で開催され、「小島砲台跡のフィールドワーク」が行われたことにあります。
あいにくの雨でしたが、大学生、親子連れなど多くの方の参加があり、私も施設を見学する中で、様々な方と触れ合う機会がありました。
多くの方とお話する中で、年配の方の太平洋戦争の体験談が最も印象に残りました。
少し要約しますが、その方はその当時は少年で松山に住んでいて、昭和20年に入り、終戦間近のその時でも人々は日本が負けるとは思っておらず、多くの方が竹やりを持ってでも戦う覚悟を決めていたそうです。
しかし、竹やりでは空中で思うがままに飛行する米軍の爆撃機にかなうはずもなく、自分の力ではどうすることも出来ず、ただただ無念だったと当時の感想を述べられていました。
そして、私たちは戦時の教育を受けて、最後まで戦うことしか考えていなかった。教育とは一歩間違えば恐ろしいものだということをつくづく感じたとおっしっていました。
また、他の方からも空襲や戦争の惨状などをお聞きしました。
戦後から半世紀余りが経過し、呪わしい戦争を体験した人々もしだいに数少なくなっています。あの戦争も歴史の一コマとなりつつあります。
戦争体験を語り継ぐ運動も活発化しています。あのような戦争を二度と起こさないために、私を含め戦争を知らない世代がどう引き継いでいくか、そのためにも歴史的な背景をふまえ、近代化遺産である戦争遺産の価値を見直す時期が来ているのかもしれません。
皆さん、おはようございます
ほとんどの方がお盆休みに入られているので
はないでしょうか?道路を走っていると県外ナンバー
の車をよく見ますよ
今日はお盆休みということもあって、当センターでは
人だけでなく冷房までお休みしちゃってます(笑)ワオ~
さてさて、先週松山市では「松山まつり」が11日
~13日の3日間において開催されました
松山まつりは今年で46回目を迎え、11日は「野球拳
サンバ」があり、23チーム約1,700人が参加し、
また、12、13日は「野球拳おどり」があり、66連約
5,800人が参加したそうです☆
私も最終日に見に行ってきましたよ♪
と、目の前にきたのが愛媛大学のグループでした
踊りもキレイに揃っていて、みんなで声をそろえ東北復興
を呼び掛けていました☆
なんかこういうふうな取り組みっていいですよね~ナイス
これだけの人数が集まってイベントを開催するのはとても
大変だとは思いますが、市民参加の町おこしとして
今後も開催してほしいですね☆
研究員 川渕でした