研究員ブログ

近代化遺産ニュースvol.5-①

研究員の土岐です。

今回のテーマは何にしよ~かな~と考えてます・・・。何にしよう・・・う~ん・・・何か忘れているような・・・。

はッ!!

「愛媛県の鉄道史」だった!

っということで、今回は鉄道史の『中予』編をアップします。

中予には4つの私鉄会社が存在していました。設立順に「伊予鉄道(明治20年)」、「道後鉄道(明治25年)」、「南予鉄道(明治27年)」、「松山電気軌道(明治40年)」です。

しかし、中予における鉄道史は、まさに「伊予鉄道」の歴史と言えます。道後鉄道、南予鉄道、松山電気軌道の3社とも、最終的に伊予鉄道に吸収合併されているからです。

また、国鉄においては、松山まで開通したのが昭和2年。けっこう早いやんと思うあなた!実は、国鉄にとって、県庁所在地では全国で松山が最も遅く開通したのです。

その伊予鉄道は明治21年に(松山市駅~三津間)営業を開始しました。国鉄が松山まで開通する約40年前!全国的に見ても、軽便鉄道としては日本初。私鉄でも全国で2番目です。松山市制に移行するよりも前に開通しています。当時は「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれていました。

※軽便鉄道とは・・・建設費・維持費の抑制のために低規格で建設され、軽量なレールを使用し、最高速度も低く、輸送力も小さい鉄道。

伊予鉄道は小林信近(初代社長)が中心となって明治20年に設立されました。

材木を松山~大阪に輸送するのに、三津~大阪間(約400㌔)の船賃より、松山~三津間(約6㌔)の輸送費の方が高かったことそうです。小林信近の鉄道への関心はこの矛盾の解決に根ざしているといわれています。

ちなみに、小林信近は県議長、衆議院議員をし、第52国立銀行(現伊予銀行)の初代頭取もした人物です。いわゆる愛媛県の政財界の大物です!

伊予鉄道の路線の開通順に~当時に建設された建造物の写真とともに~

☆明治21年:松山~三津間(6.8㌔)

☆明治25年:三津~高浜間(3.4㌔)

☆明治26年:松山~平井間

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↑『石手川橋梁』。石手川公園駅にあるやつ。こいつは何とすごいやつで、M25年完成した日本で現役最古の鉄道橋!

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↑『第26号溝橋』。石手川橋梁より少し市内寄りにあるこれも明治25年頃完成。おやっ!?左の壁に何かある!?

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この煉瓦橋が松山市の「景観形成重要建造物」に指定されているという表記でした。

☆明治29年:立花~森松間(4.4㌔)

立花~森松間は昭和40年に廃線となりました・・・。

☆明治32年:平井~横河原間が開通し、松山~横河原間(13.2㌔)全通

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↑『小野川橋梁』。完成は明治32年頃。

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↑『横河原駅』。開通した明治32年当時の建物のようです。

次は、道後鉄道にいってみましょう!

道後鉄道は、松山市街~日本最古の温泉である道後温泉を結ぶ鉄道で、村瀬正敬を中心とした道後有志で明治25年に設立されました。路線は2本で、伊予鉄道古町~城北~道後間と、一番町~道後間です。2路線合わせても4.9㌔でした。夏目漱石が松山中学校で英語教師として在任していた時の「坊っちゃん」が利用したのは、この鉄道であったようです。

今の路面電車という感じでしょうか。木屋町~道後間、道後~一番町間は当時と現在とは別の場所を走っていました。

次は、南予鉄道。

南予鉄道は宮内治三郎を中心とした郡中方面の有志により明治27設立。明治29年に松山藤原(伊予鉄道市駅と川を隔てて隣接)~郡中間が開通。南予鉄道の名にあるように、郡中から中山・内子・大洲を経由して八幡浜に至る延長計画もあったが、資金調達できずに実現しませんでした。

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↑岡田駅

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↑松前駅

今の伊予鉄道の岡田駅、松前駅は南予鉄道時代に建築されたものみたいですよ~。

伊予鉄道、道後鉄道、南予鉄道は、狭い松山平野に3社営業しており、経営的にも利用者側からみても不便であったため、合併機運が高まり、明治33年に伊予鉄道が2社を吸収合併しています。

最後に・・・松山電気軌道!

伊予鉄道が明治39年に高浜港開港式を盛大に行い、高浜~宇品(広島市)間は大阪商船により、山陽鉄道や官線主要地との連帯運輸を全国にさきがけて開始しました。

そこで怒ったのが三津浜住民。why!?それまで松山における中心港としての三津浜の繁栄が高浜に取られることになるからです。

清家久米一郎が中心とする三津浜町の町志が伊予鉄道に対坑・征服しようと明治40年に松山電気軌道を設立しました。

明治45年に三津~古町~道後間が開通し、もともと伊予鉄道に対坑・抵抗するものであったため、三津~古町間は伊予鉄道と併走。市街地では途中2ヵ所で立体交差していました。乗客を奪い合う激烈な競争は約10年におよび、松山電気軌道がやや優位であったそうですが、資金調達に失敗し、大正10年に伊予鉄道電気に吸収合併されてしまいました。

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↑伊予鉄道古町駅の近くにある道路ですが、この煉瓦造は松山電気軌道の路線跡のようです。

おや・・・伊予鉄道電気。

伊予鉄道の名前が変わった!?ちょっと松山電気軌道から脱線(線路だけに・・・)

実は、伊予鉄道は大正6年に伊予鉄道→伊予鉄道電気に社名変更しています。伊予水力電気を吸収合併し、電力事業を開始する際に社名変更していました。

伊予鉄道の電気事業は昭和17年に配電統制令により四国配電(四国電力の元)へ電気事業譲渡するまでの約25年ほど電気事業もしていました。

昭和17年に電気事業を譲渡する前と後の伊予鉄道を比べてみると・・・

資産規模・・・53,525千円→5,773千円(約1/10)

売上高・・・12,478千円→2,127千円(約1/6)

従業員・・・約2000人→485人(約1/4)

つまり、当時の伊予鉄道にとっては運輸事業よりも、はるかに電気事業のウエイトが高かったわけです。

そして、昭和17年に四国配電に事業譲渡したのに際し、伊予鉄道電気→伊予鉄道に社名を戻してます。

これまでの話は、まだ国鉄が松山まで開通していない時代です。

中予における鉄道史には相当なものがありますね~。また当時の遺構もけっこう残ってます。

ふだん伊予鉄に乗る方は(乗らない人も・・・)、こんな見方で見てみてもおもしろいかもしれませんよ~。

ではでは、長くなったけど、おわり!

次回お楽しみに~