研究員ブログ

近代化遺産ニュースVol.5-③

こんにちは!研究員の土岐です。

今日はいよいよ「愛媛県の鉄道史」最終回です。ワクワク・・・

では・・・さっそく「東予編」スタート!

東予エリアにあった私鉄は・・・「別子鉱山鉄道」!開通は明治26年。なんと日本で最初の「山岳鉄道」なのです。

その頃の国鉄はというと・・・香川県からどんどん延びてきて、愛媛県(川之江)まで開通するのは大正5年まで待たないといけません。

「別子鉱山鉄道」を語るには、少しだけ(ほんの少し)「別子銅山」を語る必要があるのです。名の通り「別子鉱山鉄道」は銅鉱を運ぶことを目的としてつくられたからです。

別子銅山は元禄4年に住友家により開発が始りました。

元禄とはいつ頃!?というと・・中国清王朝の康熙帝の時代です。名君で有名な皇帝ですね~(よけー分からん!)。

つまり、日本では江戸幕府5代将軍の徳川綱吉、徳川光圀(いわゆる水戸黄門)がいた時代です。今から320年前。

そして、昭和48年に閉山するまで約282年間も採掘をし、現在、巨大企業群を形成する住友グループの基礎が出来あがったのです。

江戸時代の別子銅山における運輸方法は、もちろん人力!約190年間も人力で運搬していたのです。車でも30~40分かかる距離をメチャ重い銅鉱を背負って・・・。私なら1日で腰がダメになります!

そこで明治13年に登場したのが牛車!10万円を投資して、5年を費やして牛車道28㌔を整備。当初はあの有名な近江牛18頭が活躍(あ~ステーキ食べたい!)。別子~新居浜口屋(ほぼ海沿い)まで4日かけて往復していたそうです。

でも、人力よりは良いけど、やはり不便・・・そこで鉄道の登場!

明治26年に「上部鉄道」と「下部鉄道」が開通!

総費用はなんと328,023円!・・・って少ない・・・?いえいえ、それはあなたが高給取りだからそう感じるのかもしれませんよ・・・。

んな訳はなく、今のお金で換算すれば100億円以上!こんな高給取りに会ったことはありません!もっと言えば、伊予鉄道の明治26年の年間売上高25,723円。そう思うとスゴイ額!

どの辺りを走っていたかというと・・・

マップ

ちなみに、地図の上部分(市内側)が「下部鉄道」、下部分(山側)が「上部鉄道」。青色の線路っぽいやつ、ほら電車の絵がある線!

上部鉄道は全長約5.5㌔で1日6往復。下部鉄道は全長約10.5㌔で1日4往復。

どのくらいのスピードかって!?上部鉄道の時速はなんと!・・・13㎞程・・・おそ!ノロノロ運転やな~。でも輸送量は爆発的に伸びました!って、常識で考えても、牛と鉄道とを比べたらダメでしょう。

別子鉱山鉄道は、銅鉱を運搬することが目的でしたが、昭和4年から一般営業(つまり一般旅客が乗る)を開始しました。昭和10年には新居浜港まで路線延長し、昭和17年には国鉄新居浜駅連絡線をつくるなど、利便性も向上も図ってます。

しかし、昭和24~25年以降はバスが普及しだし、次第に市内交通はバス中心となっていき、昭和30年に再び鉱石専用鉄道になりました。

そして、別子銅山の閉山の少し後の昭和52年に84年の歴史に幕を下ろします。

では、ブログもお後がよろしいようで・・・って終わりませんよ!

ここからは「電車でGO!」をします。

上部鉄道の山側(さっきの地図の下側)からスタートして・・・しゅっしゅっぽっぽ・・・東平エリアが見えてきました!

DSC_0003

でた!東洋のマピュピチュ!正確には「東平貯鉱庫、選鉱場」。つまり銅鉱を貯めたり、選別したりするところ。

・・・で上部鉄道の終点がきたので、下部鉄道(端出場エリア)に乗り換え!

端出場発電所

下部鉄道スタート地点周辺には端出場発電所!国の登録文化財。別子銅山の電力供給のためにつくられました。

下部鉄道をスタートして最初に

端出場隧道

端出場隧道!隧道はトンネルのこと。これも国の登録文化財。

次は・・・

端出場鉄橋

端出場鉄橋!端出場隧道を抜けたらスグ通ります。これも国の登録文化財。

しばらく、走ると・・・しゅっしゅっぽっぽ・・・

山根・上原エリア周辺に・・・

山根グランド

山根競技場観覧席!住友各企業の福利厚生施設として出来ました。なんとつくったのも住友社員!

広瀬家

少し遠くに見えるのが(距離にして5㌔程、目視ではムリ)・・・広瀬邸。別子鉱山鉄道をつくった住友家初代総理事の家です。国の重要文化財になってます。

・・・そして、終点「星越駅」です(当初の終点駅)

星越駅

やっと着きました!星越駅の近くには、山田社宅群、新居浜選鉱場など別子銅山関連の施設が広がっています。

そして・・・

住友銀行

住友銀行新居浜支店もあります。いつの時代にも事業にはお金が必要です!これも国の登録文化財です。

明治中期までの新居浜は、ごくありふれた瀬戸内の漁村でしたが、別子銅山の発展とともに着々と整備され、新居浜は企業城下町として発展していったのです。

別子銅山はスゴイですね~!産業としてもスゴイけど、今なお多数の近代化遺産群が残っている数少ない銅山です。日本3大銅山の日立銅山と足尾銅山の遺産(ちなみにあと1つは別子銅山。念のため・・・)と比べても、比較にならない位に残っているそうです。

是非、行ってみましょう!詳しく知りたい方は・・・広瀬記念博物館、別子銅山記念館、マイントピア別子へ是非どうぞ。

そろそろ長きに渡った「愛媛県の鉄道史」を終了します!

鉄道史スピンオフを乞うご期待!・・・でも、これ以上は鉄道の深堀りはないかも・・・

次回、近代化遺産ニュースをお楽しみに~