研究員ブログ

小林 至 講演会その1

 去る10月24日(水)内外情勢調査会松山支部主催により松山全日空ホテルにおいて、「一歩踏み出す勇気が何かを生む」と題して、元東大出身のプロ野球選手である小林氏の講演会が開催されました。

 東京大学から千葉ロッテマリーンズに入団、大きな話題となった小林氏。その後渡米してコロンビア大学でMBAを取得され、現在は、江戸川大学社会学部社会学科教授を務めつつ、福岡ソフトバンクホークス株式会社の取締役として球団経営に携われています。

 今回は、その波乱万丈の野球人生から得たものについて2回に分けて紹介いたします。

【プロ野球の選手に】

 自分のモットーは、夢とキャリアに大きなギャップがあっても、一度こうと思ったことは何が何でも達成することです。時には、達成するために一発逆転を狙った行動ととることなどもありましてよく変人扱いされることもあります。しかし、私はいつも夢に対して素直で積極的に、情熱的に自分がこうしたいことを高らかに謳い、高望みをもって行動してきました。こういう人間が歩いてきた人生についてお話したいと思います。

 まず高校野球時代にもレギュラーになれなかった者が、どうしてプロ野球の世界へ入れたのかということからお話します。高校時代に野球漬けの生活を送ったにもかかわらず、ついにレギュラーにはなれませんでした。ただただ野球が好きで生きてきたからこのままでは終われないとの思いが強く、大学で野球を続けようと思いました。ただ自分の実力からいってレギュラーを狙える大学野球のレベルは東大だと考え、東大を第一志望に努力しました。その甲斐あって東大に合格することができました。

 2年のとき神宮デビューを果たし、4年のときには晴れてエースにまで登りつめることができました。大学時代に勝つことはできませんでしたが、このとき、勝っても負けてもスポットライトを浴びる野球の魅力に取り付かれてしまいました。大学の卒業が近づくと、半分は夢で、半分は真剣に野球をやりたいとの思いで「進路はプロ野球」と答えていました。

 それを当時ロッテの監督を務められていた金田正一氏が聞きつけ「そんなに情熱があるのなら、うちの入団テストを受けさせてあげよう」と救いの手を差し伸べてくれました。そしてテスト終了後に金田監督に「坊主、野球は好きか」と聞かれたので「はい」と答えると「よし、あとは醍醐(当時のヘッドコーチ)に任せるから」と言ってドラフト8位で指名していただきました。このときこそプロ野球という夢の扉が開いたときでした。

 しかしプロの世界は、その分野のトップアスリートたちが厳しい生存競争を繰り広げる世界でした。今日のプロ野球界でも、あえて遅い球を決め球に持つピッチャーもいますが、変化球の1つとしてそうした遅い球を持つのと、懸命に投げても投球スピードが時速130kmしか出ないピッチャーとはレベルが違います。プロの世界は、成績は数字できちんと表せます。ファーム暮らしでだんだん登板の機会もなくなり、1993年のシーズンを最後に自由契約選手となり、練習生時代を含め、3年間の短いプロ野球生活が終わりました。

 プロ通算成績は、イースタンリーグで26試合。23回1/3、0勝2敗、防御率6.17。現役生活は3年と短かったけれども自分の実力でよくそこまで頑張ったという達成感がありました。

(文責 企画研究部門 研究員 秋山照彦)