8月1日、松山市中島総合文化センターが主催した「周防大島へ行こう宮本常一生誕百年の集い」に清水研究員、えひめ地域づくり研究会議運営委員の皆さんと参加しました。当日の様子を写真でお伝えします。
今回のツアーには、松山から14名、中島から21名の総勢35名での旅となりました。
チャーター便での旅(三津浜港→神浦港→伊保田港)
左:企画した豊田さんから日程の説明
右:中島総合文化センター所長金本さんのあいさつ
左:宮本常一記念館のある周防大島文化交流センター
中:館内には宮本常一が写した10万枚もの写真が保存されている
右:事務所で販売されていた「宮本常一写真図録第1集、瀬戸内海の島と町-広島・周防・松山付近」を手にとって見ると、あらビックリ!豊田さんが執筆しているではないですか
星野哲郎記念館も隣接されており、見学へ。しかし、この日は休館日。全国から多くの人が集まるのに何故?建物内には市町村合併した東和総合支所があり、職員もいるのに・・・。仕方がないので、記念館を一周。裏から館内の様子を伺うと兄弟舟の一節が掲示されていました。(写真中右)
昼食後、生誕百年記念の集いの会場へ
右:昼食時にご紹介いただいた「周防大島ドットコム」の江良さん(右端)
左:清水研究員と共に最前列に
中:東和町長、山口県教育委員会教育長のあいさつ
右:テレビ局も取材に
「宮本常一から学んだこと」と題してノンフィクション作家佐野眞一さんの特別講演
「もっと宮本常一を知ってほしい」から始まった講演は、宮本常一の生き様を紹介し、単に宮本常一を祀り上げるのではなく、「厳しく宮本常一に向き合ってほしい」と佐藤氏の熱い思いが語られました。
左:会場内には、宮本常一が撮った写真が展示されていました。
中:よく見ていると今治から三津浜までの軌跡も紹介されていました。
右:書籍販売コーナーは大盛況でした。
左:事前に上演に際しての注意があり、ステージ近くで見てもらいたいということで移動。いつの間にか若松さんが私の横に。講演の時には3列程後ろにいたはずなのに・・・。先を読む力(佐野さんの講演で日本人に不足しているものと説明があったばかり)で好ポジションをキープ。隣にいた清水研究員は、若松さんの後ろで見ることになってしまいました。
右:上演後の坂本長利さん
左:帰りの船内。左から中島総合文化センター所長金本さん、松山離島振興協会会長田中さん、若松進一さん
中:隣では門田眞一さんが分厚い本を読んでいる。
前文にはこう書かれていました。
東和町は私のふるさとである。私にとってふるさとは生きざまを教えてくれた大事な世界であった。郷里を出るとき父の言った「うれしいにつけ、苦しいにつけ、ふるさとのことを思い出せ。困ったときにも力になってくれるのはふるさとだ」という言葉がその後もずっと心の中に生きつづけていた。
左:読んでいるのは、1,000ページにおよぶ東和町誌。宮本常一が一人で作ったものだそうだ。
左:今回お世話いただいた豊田さん。聞くところ、周防大島で定期的に開催している「郷土大学」にも参加しているそうです。
右:舟の先端から撮った興居島沖にしずむ夕日。夕日を見ながら一日を終えました。
今回の旅では、 「あるく、みる、きく」を成し遂げた宮本常一を存分に堪能させていただきました。
因みに、この日の様子は、若松進一ブログでも紹介されています。
(文責 まちづくり研究部門 研究員 松本 宏)
先日、ある会議で「南予の鯛めし」のことが話題にのぼった。
いわずもがなであるが、愛媛県には2種類の「鯛めし」がある。
ひとつは、東予・中予で食される「鯛を一尾丸ごと釜にいれ、醤油と酒、だしを加えて米とともに炊き上げたもの」で、ご飯が炊ければ、鯛の身をほぐしてご飯にまぜあわせ、椀によそうもので、こちらの「鯛めし」のほうがポピュラーだ。
そして、もうひとつは南予地方で食される鯛めしで、鯛の刺身をタレの中に漬け、海苔やネギなどの薬味を加えたものをご飯にかけて食べるものである。
その「南予の鯛めし」の由来は、宇和島市観光協会のHPによると、もともとは「ひゅうがめし」といい、藤原純友が根拠にしていた日振島を中心とした伊予水軍が考え出したものとされていて、鯛以外にも「アジ」や赤身の魚などでも用いられる料理でもある。
ただ、「ひゅうがめし」というこの言葉の由来も、「日振島という言葉が訛ったもの」という説もあれば、西予市明浜町あたりでは「日向(宮崎)から伝わったもの」といった説もあり、伊方町三崎あたりでは「りゅうきゅう(琉球)」、宇和島市津島町あたりでは「ろっぽう」とも呼ばれており、「南予の鯛めし」といっても地域によってさまざまな呼び名があり、また調理法も少しずつ地域性があって異なるようで、それだけ「鯛めし」が「じゃこてん」とともに南予地域を代表する食文化のひとつと言っても過言ではないだろう。
また、いつから「鯛めし」と呼ばれるようになったのかを調査してみたところ、昭和50年代の観光情報には「ひゅうがめし」として紹介されていたが、昭和60年代の観光情報には「鯛めし」として紹介されているという指摘以外で、詳しいことは判明していないようである(アトラス出版「愛媛たべものの秘密」より)。
あわせて江戸時代などの歴史的な文献における「南予の鯛めし」の記載について、県の歴史文化博物館にも問い合わせをしているところで、詳しいことが判明したらまたご紹介したい。いずれにしても、呼び名や調理法などで南予地域の中でも少しずつ異なるこの「鯛めし」、ちょっと奥が深そうである。
(文責 まちづくり活動部門 研究員 谷本英樹)
(注)これは7月31日のブログの続きです。
米原公民館を訪問した後、米原公民館長さんの計らいで「黒壁」で有名な滋賀県長浜市を訪問しました。
滋賀県長浜市は羽柴秀吉が長浜城を築いたことでも知られる城下町で、北国街道沿いの銀行の建物を買い取り、ガラス館などを経営する第3セクター「黒壁」を中心に、特定活動非営利法人「まちづくり役場」のみなさんも協力して、中心市街地にある商店街を中心としたまちづくりをすすめています。
※長浜の街並み(建物に統一感があり美しい)
※中心部にあるお寺(大通寺)
※街並みを生かしたおしゃれな店のたたずまい
※商店街の中の様子(アーケード、店舗の入口を改修してます)
※中心部には川も流れています
長浜のまちづくりの根本には、博物館都市構想と呼ばれる「まち全体を一つのミュージアム」としてとらえて、生活に根ざして生まれた文化や伝統的な街の雰囲気を大切にして、個性ある美しく住めるまちにしていこうという考え方があります。
この考え方は昭和59年3月に策定され、官民一体となった中心市街地の活性化や「黒壁」の設立、商店街のアーケード改修、といったハード面の整備を行い、あわせて住民主導のイベントなどのソフト面の充実を図ったことにより、平成13年には、専門家から見たまちづくり第1位の称号を得て、長浜のまちづくりは全国的に知られるようになり、第3セクター「黒壁」の従業員はパートを含めて100名程度という新しい雇用を生み、今では年間220万人もの観光客が訪れるまでに発展しています。
もともとは大型店舗の進出に危機感をいだいた地元の人たちの動きからはじまった長浜のまちづくりは、単に中心商店街を活性化しようという枠組みにとらわれずに、商店街周辺を含む都市全体の活性化という視点でもって中心市街地の活性化を行ってきたことが成功の一因と言われ、このことが地域経済効果を高める結果になったといわれています。
この日は、残念ながら時間の都合により街並みを散策するだけとなってしまいましたので、商店街の活性化を図るヒントを学びに再度訪問してみようと思っている今日この頃です。
(文責 まちづくり活動部門 研究員 谷本英樹)