研究員ブログ

地域づくり全国交流会議四万十大会(1)

11月15日、16日の両日にわたって、高知県四万十市で開催されました「地域づくり全国交流会議四万十大会」に参加してまいりましたので、4回にわけて参加の報告をこの研究員ブログで行いたいと思います。

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この大会は、国土交通省が所管する地域づくりの全国大会で、来年度に愛媛県で開催されます「地域づくり団体全国研修交流会」は総務省所管の地域づくりの全国大会となります。

別の大会とはいえ、そこはやはり「地域づくり」の全国大会ですので、愛媛大会の運営の参考になればということで取材を兼ねての参加となりました。

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※受付の様子

この日、集まったのはおよそ300人ほどの地域づくりに関わる方たち。県外からの参加者は北は北海道から南は鹿児島までと全国各地から参加されていたようです。そのうち、およそ4割ほどが地域づくり団体の方々だったそうですが、高知県外からの参加者はそのほとんどが行政関係者の方が多かったような印象があります。

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※幡多地域の名産品がずらりと並んでいました。

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※PRブースの様子

会場付近には、地域づくり表彰候補となっている8つの地域づくり団体の活動紹介ブースが設置され、また四万十市付近の高知県幡多地域の名産品を販売するブースもありました。

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※全体会場の様子

初日の日程としては、初日の午前中に全体会を開催し、午後からは基調講演の後に3つの分科会を開催しました。

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※全体会の様子

午前中の全体会では、開会のあいさつがあったのち、地域づくり表彰審査会が開催されました。

この地域づくり表彰制度は、「創意と工夫を活かした広域的な地域づくりを通して、個性ある地域の整備・育成に顕著な功績があった優良事例を表彰することで、地域づくり活動の奨励を図ることを目的に、昭和59年度より実施(国交省HP引用)」されているそうで、この四万十大会の全体会では、書類審査や審査委員による現地審査といった事前選考によって選ばれた8つの団体が審査対象となり、それぞれの団体の最終プレゼンを経て、四万十大会会場の参加者の投票などを経てこの会場の場において決定されました。

この日、四万十大会の最終選考にノミネートされた8つの団体を紹介します。

NPO法人霧多布湿原トラスト(北海道浜中町)
桐生からくり人形保存会(群馬県桐生市)
ハッピーロード大山商店街振興組合(東京都板橋区)
NPO法人ながおか生活情報交流ねっと「そいが」(新潟県長岡市)
NPO法人蒲生野考現倶楽部(滋賀県日野町)
NPO法人かさおか島づくり海社(岡山県笠岡市)
財団法人清和文楽の里協会(熊本県山都町)
大隈の国やっちく松山藩(鹿児島県志布志市) 

それぞれの団体の活動概要については、それぞれのリンク先のHPを参考にしていただくことで省略することとし、一部の団体の取り組みについては「研究員ブログ」の別記事で掲載したいと思います。

そして、昼食をはさんだ後、午後からは当センターもお世話になっている高知大学の坂本世津夫先生の講演ののち、分科会が開催されました。

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※第2分科会の様子

分科会は3つの分科会にわかれ、第1分科会では「地域の歴史に根ざしたふるさとづくり」をテーマに、第2分科会では「新しい地域資源によるふるさとづくり」をテーマに、第3分科会では「幡多地域の体験型観光と連携したふるさとづくり」をテーマに、それぞれ高知県幡多地域の地域づくり団体が事例発表を行い、その事例報告とテーマにもとづいて研究協議を行いました。

3つの分科会どれも魅力溢れる事例報告だったのですが、宇和島市津島町岩松地区で濁酒「なっそ」がえひめ夢提案制度により今年からつくられたこともあって、「三原村のどぶろく特区」の取り組みについてお話を聞きたいと思い、第2分科会に参加してみました。

第2分科会では、この三原村のどぶろく特区の取り組みと、黒潮町のTシャツアートの取組が報告され、参加者から質問や意見、提言が報告者に寄せられるなど、たいへん活発な議論がなされていました。

分科会の終了後、会場をうつして午前中に行われた「地域づくり表彰」の表彰式が行われ、参加者の投票による四万十大会実行委員会会長賞には岡山県笠岡市の「NPO法人かさおか島づくり海社」が選ばれていました。

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※表彰式の様子

その後、交流会が行われ、宿毛市の子どもたちによる太鼓演奏のアトラクションののち、幡多地域の郷土料理などがふるまわれ、参加者同士の交流を深めていたようです。

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※アトラクションの太鼓演奏の様子

2日目は、現地研修が行われました。その様子は次回の研究員ブログで御紹介いたします。

(文責 まちづくり活動部門 研究員 谷本英樹)

小林 至 講演会その2

【アメリカ生活から球団経営へ】

 1995年新天地を求めてアメリカへ、当時、流行っていたMBAを取得するため渡米しました。コロンビア大学経営大学院入学。東大時代に経営学を専攻していたので違和感なく2年後にMBAを取得することができました。そして、旅行に訪れて以来、一度こんなところに住んでみたいと思っていたオークランドにある「ゴルフチャンネル」という会社に入社しました。そこでの仕事は、同時通訳、翻訳、コメンテーターなど、いわく「英語屋」。執筆業も精力的に展開しました。

 しかし住めば住むほどアメリカの格差社会が、どんどん自分の理想から遠ざかっていくことを感じ始めていました。日本人に生まれて良かったなどと言っているうち、経営トップに呼ばれ、国と会社の人種差別体質を公に批判したということで突然クビを言い渡されました。アメリカで約7年足らずの生活でしたが、帰国を決意し2000年12月再び日本へ帰ってきました。

 そして帰国後、江戸川大学から教育界へと誘われ、「いずれは」と思っていた仕事であったため直ちに「イエス」と答えて、スポーツビジネスを中心とした経営学を専門分野として社会学部で教鞭をとることとなりました。

 スポーツビジネスという観点から当時の日本プロ野球の現状を見ると、ファンの人口は伸び悩み、球団経営は健全さに欠け、有望選手は米国大リーグへ流出して行く非常に危機なる状態でした。

 そして2004年の球界再編問題をきっかけに「合併、売却、新規参入。たかが…されどプロ野球!」という本を書き上げ、この書籍が孫正義氏の目に留まり福岡ソフトバンクホークス株式会社取締役となり、12年ぶりに再びプロ野球の世界に足を踏み入れました。

 今の日本のプロ野球で良い所は、WBCでの優勝したことでも証明された選手の力が世界トップクラスであること、本年の観客動員数が史上最高となったことです。

 例えば、ソフトバンクは、観客動員数320万人、1試合平均32,000人、稼働率90%、これは地域に密着している球団であること、ローカル局が地元チームの情報を頻繁に放送し選手の露出度がすごいことである。日本ハムも東京から北海道へ行ってから飛躍的に良くなりました。反対にヤクルトは特徴のない球団になっています。松山には素晴らしい球場がありますがいかがですか。

 私の夢は、米国の大リーグに負けないほどのピカピカの輝きを日本のプロ野球界に取り戻すことです。そのためには地域の力を頼りにプロ野球のブランド価値を上げていく必要があると思います。

 今回の講演で小林氏は、日本プロ野球の復活は、地方の活性化と地域の力を頼りとしていると言われています。愛媛のマンダリンパイレーツや愛媛FCを全国ブランドにするためには、愛媛県民挙げての応援が必要ではないでしょうか。

(文責 企画研究部門 研究員 秋山照彦)

小林 至 講演会その1

 去る10月24日(水)内外情勢調査会松山支部主催により松山全日空ホテルにおいて、「一歩踏み出す勇気が何かを生む」と題して、元東大出身のプロ野球選手である小林氏の講演会が開催されました。

 東京大学から千葉ロッテマリーンズに入団、大きな話題となった小林氏。その後渡米してコロンビア大学でMBAを取得され、現在は、江戸川大学社会学部社会学科教授を務めつつ、福岡ソフトバンクホークス株式会社の取締役として球団経営に携われています。

 今回は、その波乱万丈の野球人生から得たものについて2回に分けて紹介いたします。

【プロ野球の選手に】

 自分のモットーは、夢とキャリアに大きなギャップがあっても、一度こうと思ったことは何が何でも達成することです。時には、達成するために一発逆転を狙った行動ととることなどもありましてよく変人扱いされることもあります。しかし、私はいつも夢に対して素直で積極的に、情熱的に自分がこうしたいことを高らかに謳い、高望みをもって行動してきました。こういう人間が歩いてきた人生についてお話したいと思います。

 まず高校野球時代にもレギュラーになれなかった者が、どうしてプロ野球の世界へ入れたのかということからお話します。高校時代に野球漬けの生活を送ったにもかかわらず、ついにレギュラーにはなれませんでした。ただただ野球が好きで生きてきたからこのままでは終われないとの思いが強く、大学で野球を続けようと思いました。ただ自分の実力からいってレギュラーを狙える大学野球のレベルは東大だと考え、東大を第一志望に努力しました。その甲斐あって東大に合格することができました。

 2年のとき神宮デビューを果たし、4年のときには晴れてエースにまで登りつめることができました。大学時代に勝つことはできませんでしたが、このとき、勝っても負けてもスポットライトを浴びる野球の魅力に取り付かれてしまいました。大学の卒業が近づくと、半分は夢で、半分は真剣に野球をやりたいとの思いで「進路はプロ野球」と答えていました。

 それを当時ロッテの監督を務められていた金田正一氏が聞きつけ「そんなに情熱があるのなら、うちの入団テストを受けさせてあげよう」と救いの手を差し伸べてくれました。そしてテスト終了後に金田監督に「坊主、野球は好きか」と聞かれたので「はい」と答えると「よし、あとは醍醐(当時のヘッドコーチ)に任せるから」と言ってドラフト8位で指名していただきました。このときこそプロ野球という夢の扉が開いたときでした。

 しかしプロの世界は、その分野のトップアスリートたちが厳しい生存競争を繰り広げる世界でした。今日のプロ野球界でも、あえて遅い球を決め球に持つピッチャーもいますが、変化球の1つとしてそうした遅い球を持つのと、懸命に投げても投球スピードが時速130kmしか出ないピッチャーとはレベルが違います。プロの世界は、成績は数字できちんと表せます。ファーム暮らしでだんだん登板の機会もなくなり、1993年のシーズンを最後に自由契約選手となり、練習生時代を含め、3年間の短いプロ野球生活が終わりました。

 プロ通算成績は、イースタンリーグで26試合。23回1/3、0勝2敗、防御率6.17。現役生活は3年と短かったけれども自分の実力でよくそこまで頑張ったという達成感がありました。

(文責 企画研究部門 研究員 秋山照彦)

第19回全国農村アメニティ・シンポジウム

10月18日・19日の両日、内子町において第19回全国農村アメニティ・シンポジウムという大会が開催(主催:全国農村アメニティ協議会)されました。

内子座

※会場の内子座

受付の様子

※受付の様子

この大会は、農村アメニティの本質を明らかにするとともに、農村アメニティの水準をいっそう高めていくことを目的にして、お互いの経験や智恵を交流していくために開催されており、今回は内子町石畳地区が全国美の里づくりコンクールで最優秀賞である農林水産大臣賞を受賞したために、内子町で開催されることになりました。

10月18日(木)は、内子座において東京農業大学教授の進士五十八先生の講演ののち、進士先生をコーディネーターに4人のパネリストによるシンポジウムが開催され、翌日の19日(金)には内子町石畳地区の視察を行いました。

会場の様子

※会場の様子

この研究員ブログでは、初日の様子のうち、進士先生の講演会をお知らせいたします。

講演会では、まず大会名にもつかわれている「アメニティ」の用語の説明がありました。 たいていは快適空間などと訳されていること多いそうですが、先生によると「歴史や自然、文化を守り、大切にする」ことがアメニティの根本だということだそうで、日本でこの言葉を最初に使ったのは石原東京都知事(当時は環境庁長官)だそうです。

最初に使われた当時は、開発や活力を活発化させることにやっきになっていた時代で、風景を守るなんていうことはおろそか、意識の上ではナンセンスという時代でしたが、現在は「風景を守るということも重要である」と社会は認識するようになって来ました。

この価値観の変容については、「かつてここは取り壊して駐車場にしたほうがよいという住民の多数派だったのが、今では観光名所として「残さなければならない」と大多数の住民が感じている」といった会場となった内子座についても事例として述べられていました。

ただ、先生がいわれるのは、車の両輪のように両方共に大事で片方だけがということではないということで、それは日本人の心性というものに根付いている考え方であると述べられ、「仕事と遊び」の話を具体例に用いて、日本人はどうも両極端な話にすぐ飛びついてしまう傾向があるということを述べられていました。

次に、その両極端が「農業(農村)と工業(都市)」でもあるということで、農業(農村)は自然と共生している産業(地域)であり、工業(都市)は自然に負荷をかけて発展してきた産業(地域)である。しかし、農業ではサラリーマン並みに所得はあがることはないが、工業ばっかりやっていると自然に負荷をかけすぎてしっぺがえしをくらうことになる。たとえば、工業(都市)はエネルギーが必要であり、都市はどんどん肥大化していく。だからその需要をみたすために環境に負荷をかけて供給してきたが、それでも足りないから原子力発電に頼るようになる。本来、そういうエネルギーをつかわないようにしておけばそんな原子力発電に頼る必要はない。また、自然を壊すことによって都市で災害が起こるのは当然であり、都市化そのものが災害となっているという指摘もありました。

そして、その都市というものについても、戦後の日本人はアメリカを目指しすぎたために、日本全国が金太郎飴のように都市を目指してしまい、「農村には何もない」ということをいうようになってしまったことを指摘し、そうではなく自分たちの地域のもつアイデンティティーを保つことを目指すべきだったのだと述べられ、そこには文化があると述べられており、戦後日本は、都市と農村を二元化してしまい、両極端なものを目指してしまったと指摘していました。

言われてみればそうです。農村に住んでいる人は「うちには何もないから」といいますが、じゃあ、地方中核都市である松山でも同じく「うちにも何もないから」という話を聞きます。すべてが「都市」へとベクトルが向かっていることがわかります。都市化することがいいことだという概念が刷り込まれているのでしょう。

そして、地域づくりの原点は「地域資源の見直し」からはじめます。ないものねだりではなく、あるものさがしとはよく言ったものです。そこには生活文化があるということでしょう。

英語では農業については「agriculture」といい、また養殖漁業は「aquaculture」といいます。どちらも「文化=culture」という文言が入ることからも、農林水産業というのはまさしく文化に根差した産業であり、自然と共生しなければならない産業なのだということであり、「そういう意味で、負荷をかけすぎる、つまり工業化しよう、所得を増やそうとしたら、確実にしっぺ返しや失敗してしまう」ということであり、そうならないために「国全体で支える必要がある」ということなのだと感じました。

たとえば養殖漁業をするにしても、お金になるからとどんどん養殖する家が増えたとしても、飽和状態になってしまって自然の浄化能力を超えると海は汚れてしまい、負荷をかけすぎてしまいます。つまり、農林水産業では所得はある程度までしかあがらないのであり、それをサラリーマン並みに儲けようとしても無理が生じるということです。

しかし、その農林水産業を捨てられてしまうと、国民全体が息絶えてしまうのです。医食同源という言葉がありますが、食が国の根本であり、食べ物がないと人間は生きていけず、その食べ物も安心で安全でなければならないわけです。ゆえに、農村というものは国民が生きるうえで絶対不可欠であることがわかります。 

であるならば、都市の住民が農村にやってきて農村を支える必要があります。そこに交流人口という概念があるのだとわかりました。それも両極端ではなく、都市にも少し農村の要素があり、それがどんどん農村にいくにつれてその度合いが大きくなるという仕掛けが必要なのだと先生は述べられていました。

ということは、究極の農村の風景は、究極の都市の正反対でなければならないということでしょう。田舎からでてきた人間がコンクリートジャングルの超高層ビル群を見て「大都市」を感じるように、都市の住民が田舎へやってきたときにこれぞ田舎の風景というものを演出する必要があります。なぜ、その演出をする必要があるかということですが、先生は「その地域の魅力を知るために、歴史や文化を学ぶのには時間がかかるが、風景はたった一瞬だからだ」と述べられています。

都市の魅力や象徴がコンクリートジャングルならば、農村の象徴はナンなのかということです。農村からでてきた人が一瞬で都市の姿を見て都市だと思うように、ぱっとやってきた都市民にとってはぱっとみた一瞬の農村風景こそが一番重要になってくるのであるということなのでしょう。都市の住民がずっと長く滞在するのであれば歴史や文化を知ることができるが、そうはいかない。つまり「見た目が大事」だということなのだと思います。

ただ、その風景も機械的に「看板や電柱もなくしたほうがよい」ということではなく、地域になじんでいるかということが重要であるとも述べられていました。それが風景の一部となれば、それはそれでよいのであるということでしょう。そのために、その地域の風景を形成している産業は大切なのだとも述べられていました。

また、「都会人の見た目のこだわり」についても、これからは価値観がどんどん変容しており、「余暇の田舎暮らし」がトレンドになってくるのは間違いなく、都市は緑がすくなく人の心を癒すところがたいへん少ない地域であり、だからこそ都市の住民は癒しを求めて農村にやってくる。だから市民農園が人気なのだと述べられて、また若者が農村にやってくることが少ないのは若者には活力(生命力)があるからであり、活力が弱くなってきた人間ほど癒しをもとめに来るものなのだと述べられてました。

ただ、都市民は単なる癒しではなく「洗練された癒し」を求めており、都市ではおしゃれなところが繁盛しているという状況があるため、そんな都市民のニーズにあわせて、ある程度、農村も都市化とは異なるおしゃれが必要があるとも述べられていました。私はそれは「粋」とか「通」とかそういう言葉に代表されるようなことなのだろうと感じました。

そして、最後に「景観十年、風景百年、風土千年」という言葉を紹介し、風景づくりの5つのイニシャルなどを紹介されて講演をしめくくられていましたが、いわゆる「交流人口の拡大」のための「農村における風景づくり」について、たいへんユーモア溢れてわかりやすく講演していただきました。

このシンポジウムなどについてのお問合せ先は、内子町役場 町並・地域振興班(0893-44-2118)まで。

なお、2日目の石畳地区の視察の様子については、この「研究員ブログ」が文章ばっかりだったのでお詫びということで、事務局日誌において写真ばっかりでご紹介しております。

(文責 まちづくり活動部門 研究員 谷本英樹)

建築物に見る愛媛の近代

(財)えひめ地域政策研究センターの事業に「まちづくり活動アシスト事業」があります。この事業は、まちづくり活動の活性化、地域の活性化を促進するために、県内で地域づくりのためのワークショップやイベントの開催、広報資料の作成などの活動を行っているまちづくりグループに対して、活動費の一部を助成するものです。今年度も5団体への助成が決まっており、それぞれの研究員がサポートしながら事業を実施しています。

私がサポートしている団体は「久米はいじの会」です。既にこのブログで紹介しましたが、今年7月に 来住廃寺まつりのプレイベントとして「シタール演奏の夕べ」を実施しました。

その久米はいじの会が、久米公民館とタイアップして「久米文化講座」を開催していることを聞きつけました。また、今回の講座は、当センターやえひめ地域づくり研究会議とも関わりの深い松山東雲短期大学の犬伏武彦教授の講話でもありましたので、興味津々参加してきました。

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「はいじの会」門田会長から犬伏先生を紹介

犬伏先生の講話は、「建物からは、時代が見える、生活が見える、文化が見える。そして、人間の姿が見える」とのお話から始まりました。

来住村(現久米地区)に明治4年に建てられた「伊勢屋」は、伊勢神宮への伊勢参り、伊勢神道が広がり、来住村伊勢講が結成されたことにより、神事や講員の宿泊のために、多数の信者緒方の百姓町人から寄進を受けて建ったものだそうです。明治6年に伊勢講の制度は廃止されましたが、神宮司丁という役所が置かれ、旧6月20日には大祭が昭和の支那事変まで続き、以降も青年団により伊勢屋祭り(夏祭り)が行われていたそうです。

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今の伊勢屋の外観

その他にも、明治初期の建物として、「広瀬邸」「開明学校」「道後温泉」(すべて重要文化財)を紹介して頂きました。犬伏先生は、世界的に見て2,300件しかない重要文化財の数から「日本は文化財貧困」と言われていました。ただ、その件数からも「選ばれた文化財」として、どれも貴重価値の高いものであり、新居浜の「銅山」、松山の「温泉」、宇和の「教育」と、それぞれの地域の明治初期の生活文化がよく現れていると述べられました。

明治6年に建設された釣島の灯台は、「愛媛の近代」の最たる建築物だそうで、イギリス人のリチャード・ヘンリー・ブラントン氏によるものだそうです。この灯台は、江戸から明治、鎖国から開国、近代日本へと国が生まれ変わるモニュメントであり、小さな島から愛媛の近代化が始まったそうです。

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分かり易くお話していただいた犬伏先生

はいじの会は、「国史跡久米官衛遺跡(来住廃寺)に興味を持ち、遺跡を通して久米地区の活性化」のために活動しています。埋蔵文化財の活用ですので、なかなか難しいようですが、今回の文化講座のように、広く地域住民に文化財について興味を持ってもらう機会を提供することは重要なことだと思います。

講座終了後、はいじの会のメンバーは、11月に開催する文化財を巡る「ウォークラリー」と「ネーチャーゲーム」(久米地区文化祭同時開催)の打ち合わせを行いました。

(文責 まちづくり活動部門 研究員 松本 宏)