研究員ブログ

近代化遺産ニュースvol.5-②

研究員の土岐です。

今回のテーマは覚えていますよ。そうシリーズものの「愛媛県の鉄道史」!

前回は「中予」をしたなあ~、といことは残すは「東予」と「南予」。

今回は”さくっ”といきますよー。

「東予」と「南予」どちらにしようかな・・・?

「どちらにしようかな・・・天の神様の言うとおり・・・」う~ん・・・もう1回してみよ。

でた!「南予」に決まり!

ということで、今回は「愛媛県の鉄道史(南予編)」をアップします。

南予には明治~昭和初期に2つの私鉄会社が存在してました。ズバリ、大洲市を中心とする「愛媛鉄道」と、宇和島市を中心とする「宇和島鉄道」。ズバッ!

今、会社はどうなってるの?という多数の質問に、”さくっ”と答えると・・・2社とも昭和8年に国鉄(現JR)に買収されました。

愛媛鉄道の操業期間は約15年。宇和島鉄道の操業期間は約20年。短かったけど、両社のつくったほぼ同じ路線上にJRが走ってます。

じゃーどっちから書こうかな・・・?「どちらにしようかな・・・天の神様の言うとおり・・・」う~ん・・・もう1回してみよ。

でた!「愛媛鉄道」に決めた!・・・何か同じ様なくだりがあったな。

愛媛鉄道は大正7年に長浜~大洲間を操業しました。ただ、当初の構想・計画とは大きく違うものでした。

・社名:「西予電気軌道」→「西予軽便鉄道」→「愛媛鉄道」

社名は「南予電気軌道」にしたいな~、でも「南予鉄道」というのが過去にあったな~、「南予~」だとかぶるな~。発起人に井上要(伊予鉄道)も参画しているな~・・・。じゃ「西予電気軌道」でスタートにしよう!っという感じです。これはホントみたい。

※復習!南予鉄道は明治29年に松山中心~郡中間を操業。明治33年に伊予鉄道に吸収合併されてるよ。

・路線:「郡中~中山~内子~大洲~八幡浜」→「長浜~大洲」、「大洲~内子」

お金もないし、工事が難しい山越えの中山・内子経由はやめよう!郡中~大洲間は海岸線沿い(現在の予讃本線)に路線を変更しよう。とりあえず工事が簡単な肱川流域の長浜~大洲間と大洲~内子間を建設して、あとの郡中~長浜間、大洲~八幡浜間は将来の計画線にしよう!って感じです。

③形態:「電気軌道」→「軽便鉄道」

「路面電車」で当初計画。松山市内で走っている、いわゆる「ちんちん電車」!郡中~八幡浜間を「ちんちん電車」で・・・そりゃ無理だろうということで国の許可がおりない。国から軽便鉄道にしなさい!って言われたし・・・。って感じです。それに伴って社名も変わってますね。

※復習!軽便鉄道・・・建設費・維持費の抑制のために低規格で建設され、軽量なレールを使用し、最高速度も低く、輸送力も小さい鉄道。

なぜ大洲~長浜間になったのでしょう!?・・・大洲は加藤藩6万石の城下町。んで、当時の長浜は日本3大木材集積地(そうそう、あと2つは新宮(和歌山県)、能代(秋田県))と言われ、長浜の木材価格が西日本全体の木材価格水準になるとまで言われ、木材関連業者が繁栄を極めていました。スゴイですね!

軽便鉄道は水運の代替手段でもあったのです(それまでは肱川を利用した水運で物資を輸送)。

んで大洲~内子間は・・・大洲は加藤藩6万石の城下町(さっきも聞いた!)。内子は木蝋で繁栄を極めていた時代。それと木材(長浜で取引されていた木材)。

大正末期までは業績も順調であったが、昭和に入り輸送量に伸び悩み。どんどん延びてきた国鉄によって買収され、予讃本線に組み込まれました。

JR「伊予白滝」~「春賀」、「五郎」~「大洲」の一部、「五郎」~「新谷」の一部以外の路線は、だいたい愛媛鉄道の路線上を今のJRが走ってますよ。

☆愛媛鉄道の操業頃(大正7年)の国鉄は・・・香川県から延びてきて、旧土居町まで開通。土居町~西条間の工事中!松山でさえ、まだまだ遠いぞー!

今でも残る「愛媛鉄道」now!

大越トンネル・・・JR伊予出石駅から少し南下。

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・五郎鉄橋橋脚・・・今の五郎橋梁の南側に橋脚跡が残存。

・旧和田トンネル・・・昭和62年に道路として拡幅工事がされたが、ベースは愛媛鉄道のトンネル。

・八多喜トンネル・・・当時の姿のまま、道路として利用されてます。

・河内トンネル・・・当時の姿のまま残っているが、今は通行不可。

などなど・・・

次は「宇和島鉄道」!

宇和島鉄道!?実は、この半年間で愛媛新聞記事に少なくとも4回は掲載されました(自分でマンパワーで数えました・・・)。

今西幹一郎らが中心となって設立し、大正3年に宇和島~近永間で操業開始。明治27年に86名で発起して以来、20年の念願が達成させた瞬間でした。ヤッター!

ちなみに今西幹一郎の弟に今西林三郎という人がいて、阪神タイガースファンなら知っているかも・・・。阪神電鉄の創設に参画し、長く専務を務め、大阪商工会議所会頭にもなった人物です。阪神タイガースをつくった時には、すでに亡くなっていましたが・・・。

やはり、山村の物資集積地と宇和島藩10万石の城下町とを結び、宇和島から船便で各地に輸送することが目的でした。

大正12年に近永~吉野間が開通して、宇和島~吉野間が全通。

しかし、愛媛鉄道と同じく、昭和に入り経営状況は悪化し、昭和8年に国鉄に買収され、予讃本線に組み込まれました。

「宇和島」~「北宇和島」間、「出目」~「松丸」間、「松丸」~「吉野」間以外は、ほとんど宇和島鉄道の路線上を今のJRが走ってますよ。

☆宇和島鉄道の操業頃(大正3年)の国鉄は・・・何と愛媛県には存在すらしてません(あっ、線路が存在はしていたかも・・・でも少なくとも駅はありません)。ちなみに、香川県からどんどん延びてきて・・・大正5年になって初めて旧川之江市に駅ができます。

今でも残る「宇和島鉄道now」!

・窓峠隧道・・・屈指の難工事だったそうです。

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反対側は・・・

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おや・・・左側に何かある(この写真で見えたらスゴイけど・・・)!?

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昔はトンネル上部にはめ込んであって、難工事であったことを物語っています。

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これは開通当時の写真。さっきの写真とだいたい同じ位置から撮ってますが、今は完全に埋立られてますね・・・。「人工奪天険」もあるある。

あと、窓峠隧道の近くに「長追川橋」、「上光満橋」も宇和島鉄道によって建造された現役のJRの橋梁です。

最後に・・・

両社とも国鉄に買収されました後、国鉄によって、昭和16年に宇和島~卯之町間が開通。昭和20年に八幡浜~卯之町間が開通し、高松~宇和島間297.5㌔が全通!

今回は写真少なくてゴメンなさい・・・その分、文字を多くしたので良しとしよう!

じゃー終わるよ~・・・どうしようかな・・・もうちょっと書こうかな・・・どうしようかな・・・

では、”さくっ”と終わり!